Masukレインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。
その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」 「ありがとう」 「何か食べたいものはある?」 「いつも通りで」 「少しくらい特別なものを頼みなさい」 「じゃあ、パンに蜂蜜を」 「それだけ?」 「十分です」 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」 「うん」 「何か欲しいものはあるか?」 「今のところない」 「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」 「好きなことというのが、難しい」 「難しい?」 「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」 「それを忘れろ、今日一日だけ」 「忘れたら困る」 「本当につまらないな、お前は」 マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。
王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。エリナへ
父上の言葉について、書いてくれてありがとう。 『この子は私よりうまくやる』という言葉を、一歳の娘に向けて言った人間がどういう人だったか、少し想像した。正しいことを正しいまま言おうとする不器用な人、という話と合わせると、その言葉は計算ではなく、本当にそう見えたから言ったのだと思う。 一歳の子どもを見て、そういうことが見える人間は、珍しい。 学院の話。石鹸と消毒液の正式採用後、最初の月の感染件数が出た。術後感染が、採用前の同時期と比べて四割以下になった。師匠がその数字を魔法師団長に直接報告した。団長は「継続して記録するように」と言った。これは、公式な追跡調査が始まったということだ。 クロヴェル派からの反発は、まだある。「石鹸の効果は魔法による補助があってこそだ」という主張をする者が一部いる。根拠のない話だが、感情的な支持を集めている。これに対して、俺は今、別の方法を考えている。 感情には、感情で返すのではなく、もっと多くの数字で返す。一つの学院の一ヶ月のデータでは足りない。ルシェムとベルナと周辺の町の、もっと長い期間のデータが必要だ。ゴードンさんに、過去のすべての記録をまとめてもらうことはできるか。 それから、一つ聞いていいか? 今日は何日だ。 ――レイン――エリナは手紙を読み終えて、最後の一行を二度読んだ。
『今日は何日だ』 なぜそれを聞くのか、一瞬わからなかった。 それから気づいた。 前に、誕生日の話を、したことがあっただろうか。 なかった、と思う。 では、なぜ—— 考えて、答えが出なかった。 エリナはゴードンを呼んだ。 「学院からのデータ要請があります。過去のすべての記録を、学院に提出できる形にまとめてほしい」 「どの範囲ですか」 「石鹸と薬草薬の普及を始めてから現在まで。供給量、販売数、病人の減少記録、傷の治癒事例、すべて」 「かなりの量になりますが」 「それが目的です。レインが、量で返すと言っていた」 「なるほど、わかりました。三日いただければ、まとめられます」 「お願いします」 ゴードンが出ていった。 エリナはもう一度、手紙の最後の一行を見た。 『今日は何日だ』 返事を書こうとして、ペンを持った。レインへ
学院のデータの件、ゴードンさんに依頼した。三日でまとまる予定。送付方法はこちらで手配する。 術後感染が四割以下。それは大きな数字だ。師匠が動いてくれていることも。 クロヴェル派の「魔法による補助があってこそ」という主張には、反論するより数字で圧倒する方が正しいと思う。感情で動いている相手に感情で返すのは消耗が大きい。あなたの判断は正しい。 最後の質問について。 今日は、私の誕生日だ。八歳になった。 なぜ聞いたのか、理由が気になる。 ――エリナ――書いてから、『理由が気になる』という一行を消そうか少し迷った。
消さなかった。 気になるのは本当のことだから。 封をして、机の端に置いた。夕方、フィオナから手紙が届いた。
王都からの定期報告の手紙と、いつもより少し厚い別の封筒が同封されていた。 報告書を先に読んだ。 クロヴェル派の動きに大きな変化はない。地方道路管理局は今のところ静かだ。アルバ殿下が最近、商業関連の会議への出席を増やしているという情報がある。エリナの名前が、その会議の中で話題に上ることが増えてきた。 別の封筒を開けると、小さな紙包みが入っていた。 開けると、王都で作られた薄い飴菓子が数枚。 一緒に、短い紙が入っていた。今日があなたの誕生日だと、セレーナさんから聞いた。おめでとう。八歳は、七歳より少しだけ大人に近い。でも、あなたはすでに十分すぎるくらい大人みたいなことをしているから、あまり関係ないかもしれない。
王都の飴。甘いものを食べる習慣がないと思うけど、誕生日くらいは食べなさい。 ――フィオナ―― 追伸:レインは知ってる? あなたの誕生日。エリナは追伸を読んで、少し止まった。
手紙を書いた順番を考えると、レインの返事が届いたのが今日の昼過ぎで、フィオナの手紙が届いたのが夕方だ。 つまり、フィオナはレインの手紙の内容を知らない。 それでも、同じことを聞いてくる。 この人は、どこまで読んでいるのだろう。 エリナは飴菓子を一枚、口に入れた。 甘かった。 普段、甘いものを食べる機会はほとんどない。砂糖は高い。でも、今日はセレーナに蜂蜜のパンを食べて、フィオナの飴を食べた。 誕生日というのは、甘いものを食べる日らしい。 合理的な理由はないが、悪くなかった。夜になって、マリオが事務室に顔を出した。
「今日一日、どうだった」 「普通だった」 「普通か」 「うん」 「誕生日なのに普通か」 「誕生日でも普通のことしか起きない」 マリオが少し笑った。 「まあ、そうだな」 「フィオナから飴が届いた」 「へえ。食べたか」 「一枚食べた」 「甘かったか?」 「甘かった」 「そりゃそうだ」マリオが笑った。
「他には?」
「レインから手紙が来た」 「何が書いてあった」 「学院のデータの話と、術後感染の数字と」 「他には?」 エリナは少し止まった。 「今日が何日か、聞いてきた」 マリオが一瞬だけ表情を止めて、それからにやりとした。 「ふうん」 「何?」 「なんでもない」 「何かある顔をしてる」 「してない」 「してる」 「してない」 マリオが壁にもたれて、天井を見上げた。 「なあ、エリナ」 「何?」 「お前さ、レインのことどう思ってんの?」 エリナは少し考えた。 「どう、とは?」 「どう、は、どうだよ。普通に聞いてる」 「信頼できる人だと思っている」 「それだけか?」 「数字を正確に扱う。余計なことを言わない。約束を守る。それは、仕事相手として重要な資質だ」 「仕事相手として」マリオが繰り返した。
「そう」 「それだけか?」 「……」 「エリナ?」 「それだけじゃないかもしれない」 言った後で、少し驚いた。 自分でも、そう言うつもりはなかった。 でも、言葉が出てしまった。 マリオが、ゆっくりと顔を戻してエリナを見た。珍しく、にやにやしていない顔だった。 「そっか」 「……うん」 「それで十分だ。今は、それだけわかってれば十分だよ」 「十分なの?」 「十分。お前は何でも答えを出そうとしすぎる。でも、これは答えを急ぐやつじゃないと思う」 エリナはマリオを見た。 七歳から一緒にいる幼馴染。お人好しで、無茶な計画に付き合わされてばかりで、でも律儀で、まっすぐな目をしている。 「マリオ」 「なに」 「あなたは、賢い」 マリオが一瞬、呆気に取られた顔をした。 それからケラケラと笑った。 「初めて言われた、それ」 「本当のことだから言った」 「うれしいけど、なんか負けた気がする」 「何に負けたの」 「わからん」 マリオが笑いながら事務室を出ていった。 エリナは一人、机の前に残った。それだけじゃないかもしれない。
自分で言った言葉を、もう一度頭の中で転がした。 信頼できる。余計なことを言わない。約束を守る。 それだけじゃない、部分は、何か。 うまく言葉にできない。 でも、マリオが言った通り、今は答えを急がなくていいのかもしれない。 答えを急がない、というのは、エリナにとって難しいことだ。 何でも整理して、言語化して、次の行動に落とし込む。それがエリナのやり方だった。前世でも今世でも。 でも、整理できないことがある。 言語化できないことがある。 それでも、あることは確かだ。 レインが言っていた言葉が、また頭に浮かんだ。 言葉にできないことは、無理に言葉にしなくていい。ただ、あることは確かだ。 エリナはペンを取って、フィオナへの返事を書いた。 報告書の内容への返答を書き、データまとめの件を報告した。 最後に一行。 『飴は甘かった。追伸の質問には、今日は答えない。』 書いてから、少しだけ口の端が動いた。 フィオナが読んだら、きっと「やっぱり」と言う。 それでいい。夜が深くなった。
エリナは机の引き出しを開けた。 フィオナからの手紙と、レインからの手紙が、並んで入っている。 今日届いたレインの手紙を、引き出しにしまった。 閉める前に、少しだけ見た。 『今日は何日だ』 なぜ聞いたのか、理由をレインはまだ答えていない。 次の手紙で教えてくれるかもしれない。 教えてくれないかもしれない。 どちらでも、構わない。 気になるのは本当のことだが、それを急ぐ必要はない。 引き出しを閉めた。 窓の外から、夜風が入ってきた。 ルシェムの空に、今夜は星が出ていた。 八歳の最初の夜。 蜂蜜のパンと、王都の飴と、マリオの笑い声と、レインの手紙と。 誕生日としては、悪くなかった。 いや。 エリナは少しだけ、自分に正直になった。 悪くなかった、ではない。 良かった。 素直にそう思った。 ランプを吹き消した。 エリナ・アッシュフォード、今日から八歳。 父の言葉を知った翌日に、誕生日が来た。 『この子は、私よりうまくやる』 まだ、その言葉に応えられているかどうかわからない。 でも、今日一日は、悪くなかった。 それで十分だ。 おやすみ、お父さん。 心の中だけで、そう呟いた。 返事はない。 でも、どこかで聞いていると、今夜だけは、思うことにした。ゴードンが記録をまとめ終えたのは、三日後の夕方だった。 机の上に積まれた書類の束を見て、エリナは少しだけ目を細めた。 厚い。 石鹸の販売を始めてから現在まで、一年半近くの記録がすべて入っている。供給量、販売数、各町の病人数の推移、傷の治癒事例、消毒液の使用結果、流通の記録、さらにゴードンが独自に集めた周辺の薬屋の売上動向まで。 「これだけあれば、学院の反論を数字で押し潰せます」「押し潰す、という言葉を使うとは」「珍しいですか」「少し」「長い間、不正を見ながら動けなかった人間は、数字で正義が証明される瞬間に弱い」 ゴードンが静かに笑った。「私がそうでしたから」 エリナはゴードンを見た。 この男がそういう話をするのは、珍しかった。 「商人ギルドで告発した時のことを、思い出していますか」「たまに。でも、今はそれより、この数字の束の方が大事です。過去のことより、これから使えるものの方が」「そうですね」「送付の準備をしましょう。学院宛てに、レインさん経由で」「お願いします」 書類の束を封筒に詰めながら、エリナはレインへの手紙を書いた。 データの送付について説明し、各項目の見方を簡単に注記した。 最後に一行、付け加えた。 『前の手紙で「今日は何日か」と聞いた理由を、まだ教えてもらっていない。』 書いてから、少しだけ止まった。 催促のような一行だ。 でも、気になるのは本当のことだから、書いた。 封をした。 翌日の朝、ヴァロウのマグダから珍しく本人が来た。 馬に乗って、一人で来た。息が少し上がっている。 「エリナちゃん、ちょっといいかい」「どうぞ。何かありましたか」「悪い話じゃないんだけどね」 マグダが台所の椅子に座った。「ヴァロウで、面白いことが起きてる」「面白いこと?」「
レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。 その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」「ありがとう」「何か食べたいものはある?」「いつも通りで」「少しくらい特別なものを頼みなさい」「じゃあ、パンに蜂蜜を」「それだけ?」「十分です」 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」「うん」「何か欲しいものはあるか?」「今のところない」「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」「好きなことというのが、難しい」「難しい?」「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」「それを忘れろ、今日一日だけ」「忘れたら困る」「本当につまらないな、お前は」 マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。 エリナへ 父上の言葉について、書いてくれてありがとう。『この子は私よりうまくやる』という言葉
橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。 朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ
流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ